水延の屋敷
私は、信州の北部・襟ノ輪という土地に在る、水延の屋敷へとやって来た。迎えに来た水延京子の使者・篠原の運転する蒸気自動車に乗り、1時間も掛けて辿りついた先は、広大な原生林。見たことも無い植物が周囲に咲き乱れる其処は不気味。大木の上には、豹柄模様の人陰が見えたような気がした。気がした。
私たちの不安をよそに、篠原が無表情で原生林の道無き道を蒸気自動車で半ば強引に押し進んだ後、途端開けた場所、水延の屋敷は在った。大きな屋敷の壁には、やはり見たことの無い無数の植物が絡まり、手入れも行き届いておらず、私たちをさらに不安な気持ちにさせた。壁の模様が髑髏に見える。
自動車を駐車するときに、篠原が屋敷の壁に車体の先端をこすり付け、ギギギと鈍い音がしたが、篠原は別段気にする素振りも無く、無言で車を降り、私たちを屋敷の中へと案内した。
我々の前に、まず姿を現したのは、私たちを屋敷へと招いた水延京子本人では無く、その妹、皐月だった。嗽(うがい)と呼ばれる独特の染付けを施された和洋服に身を包んだ皐月は、水面に降り立つ水鳥の如く、優雅に大広間の大階段を下りながら「お久しぶりです。黍さま。」と言った。
皐月は、今年で15だという小柄で美しい、瞳の綺麗な少女では在るが、手癖が悪く、以前片輪屋敷で、楽屋泥棒の様な行いをしていて、私がそれを取り押さえたことも在る。そのとき皐月は、その美しい顔には似合わぬ口ぶりで「見逃してくだせぇ、旦那。」と言った。
そして、開口一番私に「お久しぶりじゃねぇよ、どろぼうが。」と言われた皐月は、「この屋敷内での窃盗行為は、私、罪には問われませんのよ。全て水延の所有物の様なものですからね。でも、それでは刺激が足りませんの。」と、まったく悪びれぬ様子で言いながら、妙領寺が抱える私の鞄をちらちらと盗み見た。
「京子さんはどちらへ?」と尋ねる私に、皐月は「昨日から姿を御現しになりませんの。お姉い様が神隠しの四人目かしら。ウフフ」と、不気味な口ぶりで言ってみせた。
私は「ウフフじゃねぇよ。どろぼうのくせに。」と言おうとしたのだが、最初に彼女をどろぼう呼ばわりした時点で、妙領寺が私のことをきつく睨んでいることに気付いていたので、それを諦め、「どういうことですか?篠原さん。私たちは彼女に呼ばれてこの屋敷に来たんだ。」と、その矛先を篠原へと変えた。
篠原は、変わらぬ表情で「お嬢様はたまに居なくなるんです。」と言うと、何も言わずに"此方へ"という様な素振りで、私たちを大階段の上と促した。皐月は、階段の下から、まだ私の鞄をちらちらと見ている様子だった。
私たちは、案内された客室へと入り、数十分間、無言で消えた篠原の帰りを待っていたのだが、一向に彼が姿を見せる気配が無い。
少々痺れを切らした私は「それにしても大きな屋敷だ。探検をしよう。探検隊だ。」と妙領寺に提案した。彼は呆れた様子で「子供じゃないんですから。」と言ったが、私は構わずに「出発進行!」と片腕を高らかに掲げ、踵を返しながら客室を後にした。
屋敷の中は、取るに足らない単なる大きな屋敷で在り、2階部分は大階段を囲む様に設計されたであろう約10の客室と、その奥に在る、カギのかかった皐月たち住民の部屋だけだった。私は、特に感想を述べることなく、後ろから無言で着いてくる妙領寺と共に大階段を再び降り、一階へと向かった。
私と妙領寺は、使用人が忙しなく動く台所や、お湯の張られていない風呂場などを眺めた後、血の様な絨毯が敷かれた長廊下をつまらなさそうに進んでいた。何処かから「ここから先、生き物は通れませんよ。」という声が聴こえた気がした。
私が、声のした方に無言で振り向くと、妙領寺の後ろに、黒い背広を着た、黒髪の女が立っていた。
女は、「死者の歩速には何人も追いつけず、生者は足踏みを続けるのみ。ここから先、生き物は通れませんよ。」と真紅の瞳で此方を見据えながら、再びそう言った。瞳の中には何も映っていなかった。
「どういう意味かな?」と尋ねる私に、女は「私は牛頭。そして、こちらに居るのが馬頭。」と、何も無い空間を掌で指してみせた。
少々不気味な想いをした私が、小声で「妙領寺、殴れ。」「棒は無いか?」などと言ったのだが、妙領寺は私を睨むばかりで、言うことを聴くつもりは無いらしい。
仕方なく私は、多少の間を置き「そうですか。じゃあ、妙領寺クン。戻ろうか?」と問いかけると、妙領寺は表情を戻し「そうですね。」と応えた。
彼女の左横を抜け、廊下を引き返そうとする私たちに、彼女は逆方向を向きながら「ここに来たのは、あなたたちで4人目。3人めと4人め。ね?馬頭?」と言った。小さく微笑んでいた。
客室に戻った私たちの鞄の中から、小物が2、3点消えていた。
第10幕へと続く