原生林
高橋名人が、坊主になって、今や殺人鬼みたいな風貌。
「なにか言ったかい?」
私は、ぼそりと聴こえた、聞き間違いかも知れぬ誰かの声を耳にし、私の後方に立つ助手の妙領寺へと振り返り、そう問いかけた。
「え?なにも言っていませんよ。」
案の定、妙領寺は不思議そうな表情を浮かべ、私にそう返した。
私が水延京子に招かれ、信州の奥地に在る、この水延の屋敷へと来てから既に二週間。依頼主で在る水延京子は一向に私たちの前には姿を現さず、只、時間だけが過ぎていた。
しかし、周囲が不気味な原生林であるということさえ除けば、水延の屋敷での生活は、誠に快適なもので在り、朝昼晩と旨い食事が用意され、広く大きな風呂へと浸かり、毎晩真新しいシーツの敷かれた柔らかいベッドで眠れるのである。
一応は、依頼内容で在る失踪者探しも行ってみてはいるのだが、執事の篠原が「あまり遠くには行かないでください」と、強く言うもので、失踪者探しとは名ばかりの、散歩のようなものを妙領寺と二人、毎日繰り返している。
そして、引きちぎった名の解らぬ植物のツタを、つまらなそうに片手で振り回しながら闊歩する私の耳に、先ほどのあの声が聴こえたのだった。
当初私は、それを妙領寺の言葉かと想い、尋ねてみたりはしてみたものの、私の「高橋名人とは何だ?」という問いに対しても彼は「なんですかそれは?」としか答えず、場に嫌な雰囲気が流れるだけだった。声の主はやはり妙領寺では無かったのである。
では、この原生林で、誰がその言葉を?…此処に来てから7度ほど目にしている、あの豹柄人間の仕業だろうか?しかし、私がもはや頻繁に目にしている、其の豹柄の人間は、7度とも全て、目にしている程度の遭遇でしか無く、もしや、単なる私の頻繁な見間違いでしか無いのかも知れない。という想いも在り、水延の執事・篠原などに「あの、この辺りって豹柄人間が居ますよね?実に体躯のいい豹柄の人。」などと尋ねてみた場合、「居ますよ。彼はね、豹柄なんです。」というような返答を仮に貰えたとして、万が一、やはりそれが私の頻繁な見間違いであった場合、言葉では「居ますよ。」と云われたとしても、その微妙な、解答まで数秒間の間を察し、心の中で『豹柄人間?居ないよそんなの。コイツは頭がおかしいんだ。関わりたくない。』などと思われていることに、私自信が気付いてしまうこととなれば、其れは甚だ心外で在り、数日前、妙領寺の前で「豹柄人間…」とだけ試しに口にしてみたときの、あの妙領寺の、あの怪訝な表情も忘れられはせず、私は今も、豹柄人間の真偽を誰にも確かめられないで居る。
故に、先ほどのつぶやきは、一体誰の仕業だったのか?改めて想い直そうとしたとき、妙領寺が「先生、行きましょう。」と私を促したので、私は考えることを辞め、その歩みを水延の屋敷への帰路へと向けた。
「あ、先生っ。隈蟲村で殺人事件があったそうですよ。密室殺人?」
屋敷の扉を抜けた私が、大階段の手すりを拭く女中の舞子さんの後ろ姿を見つけ、声をかけようとしてみた所、それより早く彼女は振り返り、私の瞳を見据えながら、私にそう伝え、そう問いかけた。
女中の舞子さんは、西洋の女中服、所謂、冥土服がとても似合う美しい女性で、肩まで延びた黒髪からは牛乳石鹸のよい香りがする、私のお気に入りの女中さんで在る。
君の様な美しい女性が女中をしていては、女中仲間からは、さぞ妬まれ、さぞ苛められていたりするのだろう?冥土服の便利ポッケに牛蛙を淹れられたり。お気に入りの冥土服が、染め粉で黄土色に染められていたり。と、一度尋ねてみたことがあるが、彼女は、出所は詳しく話せないが、自分は殺人拳のようなものの免許を皆伝しており、以前そういうことをしてきた冥土の腕を、皆の目の前で叩き折ったことがあるので、誰も自分のことを苛めたりはしないのだ。と、笑顔で私に答えた。それに、そういうことを本能で感じとることが出来る水延京子も、彼女には必要以上にやさしく接してくるという。
しかし、彼女は其れを鼻にかけることも無く、毎日真摯に女中の業務をこなしているが故か、皆からは慕われている様子も見受けられる。
私は、舞子さんの牛乳石鹸の香りを感じ取れるぎりぎりの距離まで近づくと「殺人事件?隈蟲村?」と、二つの疑問を彼女へと端的に投げかけてみた。
「はい。先ほど、酒屋さんが品物を卸しに来て、そう言っていましたよ?…ここは、名探偵の黍先生の出番じゃないんですか。」
後半に差し掛かるほどに、ニコニコさを増しながら私にそう説明する舞子さんの言葉を耳にし。この二週間、自堕落な部分しか見せていない私が、名探偵としての活躍・資質・勇敢さを、屋敷の人間、いや、舞子さんにアッピールできる絶好の機会では無いのかと悟り、「そうですか。殺人事件ですか。これは大変なことになりましたねぇ。妙領寺君、ここは一つ、我々が其の隈蟲村まで出向いて、その密室殺人とやらを解決してあげようじゃありませんか。」と、ハナから周囲に聞かせるつもりの抑揚で、妙領寺へと宣言したのだった。
第11幕へと続く