只、居るだけの人

漆黒の人影が、今の私の傍らには居ます。漠然と獄然とした冥府と呼ばれる地より舞い降りた、一回舞い上がって舞い降りた、其の黒鳥の様(ヨ)な姿は、魅る者に恐怖や安堵を与えるのでしょうか。

鋼質の黒鎧に滴る無数の血線。しかし、実際には、その人影には血線などは付着していない訳で、単に漆黒の、闇の淵に佇む姿を、呼吸と共に常軌させているだけ。赤き鮮血は、私が眼を閉じたときに想像・夢想した虚構に過ぎません。虚構でしか在りません。

しかし、この御人は虚構では無い。実在する。仮に其れが、私にとっての狂気の末でしか無かったとしても、それは今、目の前に居る。只居る。



私は、特別な人間だったろうか。特別な人間では無かった筈で在る。御年24才に成る普通の男であろうか。昼夜、むしろ昼。チュウのみ、親戚が営む文房具店で事務を営んで要る。同僚は、眼鏡を曇らせた28歳の女。眼鏡を外せば、其れなりの素顔を持っているのだろうが、彼女には恋人、所謂、恋に人と書いて、白い恋人が居るので在る。銘菓で在る。白い恋人が待っているのである。らららせれぶれーと。


毎日毎日、私はその文房具店で白いノートを目の前に、えんぴつやえんぴつ削りのことばかりを考えて吐息を繰り返している。います。

その様な、私の様なものには、何事も無いまま、己の生命の灯火を吹き消し続けるだけの毎日が、おにぎりやスパゲティを、スパゲッティナポリタンを食べるだけの毎日が、繰り返し繰り返されて逝くだけなので在る。ラブゲッティって何ですか?どんなものなんですか?


ある日、事務質で弁当を広げ食べる、眼鏡を曇らせた女に「あ、それ、タコさんウィンナーですね。」と言ってみた所、女は眼鏡を曇らせながら「ええ」としか言わなかった。

何故だ、会話とはそういうものか。ここは、気の利いた会話を志すものなら、英会話をマスターしたいものなら「そうそう、タコで〜す。ってね!なんでだよ!タコ八郎かよ!で、タコ八郎のそっくりさんのイカ八郎は元気なのかよ!?」などと言うべきではないでしょうか。それならもう、ジオスなど要らない訳で。イーオンも要らない訳で。何故そうなるかと言うと、外国人は蛸が苦手だからです。

なのに彼女は「ええ」の一言で、会話を遮断する。天岩戸に閉じこもる。それは、既に白い恋人が居る眼鏡を曇らせた女には、この歪んだ掃き溜めのマトリクス中で、コンビニの女性店員と温めるか温めないかについての会話以外、異性との会話が日々まったく存在せぬ私などには、一切の興味というもが無い。沸かない。という、真理。エメスな訳ですか。

そんな彼女に対し、ほんの一瞬『しね!ブス!!』などと心の中で強く思ってはみたものの、其れでも其れは一瞬の想いでしかなく、私は今まで通りの無感情で、文房具屋さんの事務作業を続けるのである。


真っ白な事務用ノートに、憎い親戚の名前を書いてみる。そうすれば、その親戚が死ぬ様な気がして。これが、噂のショウワノートというやつであろうか。表紙にはパンダの写真が載っている。

そのこととは、おそらく関係無く、憎い親戚が、糖尿病になったという話を聞いた。



今日も、私の傍らには、漆黒の黒い人が居た。居るときと居ない時が在る。今日は居る、一昨日は居ない。昨日は居た。明日も居る?

黒い人影は、ゆうに身長は私とほぼ同じ、170センチメートル在るか無いか、在る。確実に168センチはある姿で、私の斜め後ろに立っている。最初こそドキッという、スターどっきり的な感情が沸いたものの、今では特別な感情は抱いてはいない。まるで子供のときから一緒に居たような、子供のときから着ているくまちゃんTシャツの様な、今ではチビTになってしまったくまちゃんTシャツの様な、其れに対する感情を抱きかけ…。



仕事場である、文房具屋さん。ぶんぶん堂よりの帰宅の途中、不良に絡まれた。其れは、今どき居るのかというぐらいの不良で在り。一人は、不動明王のTシャツを着ていた。一人はリーゼントだった。一人は靴が尖っていた。その3人に、私は、所謂エンカウントをしてしまった訳である。てってれりーん、てってれりーん。ドラクエ2で在る。

一人は私に言った「お前いま、俺の靴の爪先みてたべ?尖ってること確認したべ?」確かに観た。しかも、観た直後に「尖ってる。」とまで呟いてしまった。しかし、それがそんなにも気に障る様なことであろうか?そう思っているうちにも、その3人の不良。所謂、黒い三連星は、尚も私に凄みを利かせ迫ってくるのである。

で、靴の尖っていた不良が、私の胸倉に手を伸ばした瞬間。私の背中に、あの黒い人が立っていることに気付いた。私が、私自信の意志で、彼を呼び出した気がした。私は、精神を集中させ、眼を充血させ、こう叫んだ「ゆけ!!黒鎧鴉!・・・テラクロウ!!」

不良は、私を一瞬、奇異の様な表情で観た。その後、ボコボコ。


私が名付けた黒鎧鴉。もしくは、テラクロウは、私の意志に反し、何もすることは無かった。只、立っているだけだったのである。私が、不良に小突かれ、蹴られしていたときも、只、ジッと立っていたので在る。しかも、その表情には、申し訳なさそうな表情すら見えることは無かった。無表情、無感情、無感動。

私は、口元の血をふき取りながら、財布が無事だったことを誇りに思った。2度ほど噛み付いてやったことを誇りに思った。そして、私は、"只居るだけの人使い"になったんだなぁ。と思ってみた。